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万作萬斎狂言公演

最初は、素囃子の「神楽」。天岩戸にこもったアマテラスを呼び出すため、その前で舞踊りが演じられた。その様子を描いたもの。

次は、野村万作が鍋売りを演じる「鍋八撥(なべやつばち)」。新しい市の代表の座をめぐって、鞨鼓(かっこ)売りと鍋売りが争う。鞨鼓というのは鼓(つづみ)のような楽器で、それを打ちながら舞う鞨鼓売りに負けじと、鍋売りが鍋を打ちながら舞う。最後に鍋が割れてしまうが「数が増えてめでたい」という落ちになるため昔は祝言で演じられたそうだ。

最後は、「釣針(つりばり)」。独り者の主人が太郎冠者を連れ、妻を得ようと西の宮の夷(えびす)に参詣すると釣り針を授かる。その釣竿で、太郎冠者が妻と腰元を釣り上げる。最後に自分の妻も釣り上げたのだが、顔を見て逃げ出すはめになる。萬斎演じる太郎冠者の「釣ろうよ、釣ろうよ~」という掛け声がおもしろい。

いずれも新春にふさわしく、また今も「えべっさん」で親しまれている西宮神社のある兵庫県西宮市で行われたので、ぴったりの演目だった。

お正月

正月三が日は、お天気にも恵まれ家族揃ってお雑煮、お節、お屠蘇、初詣で過ごしたが、年ごとに「去年と同じ」が幸せに感じられるようになってきた。

「Tree and Leaf」

 今年最後に、J.R.R.Tolkien著「Tree and Leaf」を一通り読んだ。
その中の「On Fairy Stories」では、「fairy-storiesは、羽がはえた小さな妖精が出てくるわけではなく、子どものためだけのものではない」と述べられていて、今のいわゆる「ファンタジー」という分野の確立に影響を及ぼしたと思われる。
 しかし、その一方「Fairy-storiesは、人間が演じるDoramaとは相反するものである」と述べられているが、相次ぐ「ファンタジー」の映画化を見ると、残念ながらこちらの意見は黙殺されているようだ。

蜜柑

この冬初めての蜜柑が来た。最近は、柑橘類といえばオレンジ、グレープフルーツが幅を利かせていて、色の名にしても「橙色、蜜柑色」より「オレンジ色」の方を良く耳にする。もちろん、蜜柑とオレンジは大きさも色も香りも味も違うが、ことばの上でも蜜柑よりオレンジの方が親しまれつつあるとしたら寂しい。

英語が世界で一番広まった言語になりつつある現在、日本語の中にもカタカナ語がどんどん入り込んでいる。ことばは文化をあらわす。日本語がカタカナ語に取って代わられるということは、日本の文化が変質するということだ。変質ならまだしも、衰退していかなければいいのだが・・・。

囃子方(はやしかた)

能の楽器を演奏する人たちを「囃子方(はやしかた)」という。
「はやす」とは「映えるようにする、ひきたてる」という意味で、「囃子方」は、単なる伴奏でなく舞や謡を盛り上げる役目を持つ。笛と、小鼓(つづみ)、大鼓、太鼓の三つの打楽器が基本で、それぞれの楽器に流派があり世襲で受け継がれている。

向かって右端が「能管(のうかん)」という竹の笛。わざと揺らぎのある不安定な音で登場人物の感情をあらわす。
右から二番目が小鼓。左手で右肩の上に構えて、右手で打つ。湿り気を与え、響きのあるトンという音がする。
その隣が、小鼓とペアになる大鼓。こちらは左腰の脇に構えて、右手で打つ。演奏前に炭火で乾かすため、カーンという鋭い音がする。
左端が太鼓。面の真ん中を二本のバチで打ち、コンコンという軽い音がする。

互いに息を合わせるためにかける掛け声が特徴的で、音程も不定で、間(ま)が大事という、すべて音符で埋められた西洋音楽とは正反対の世界だ。

扇を持つ謡が入れば五人囃子になる。気が早いが来年のお雛様を飾るときには並べ方に気をつけよう。

支倉常長

支倉常長(はせくらつねなが)率いる慶長遣欧使節団は、伊達政宗の命により、国産の帆船サン・ファン・バウティスタ(洗礼者ヨハネ)号で、太平洋を渡りアカプルコに着き、そして大西洋を航海して、1615年にローマ法王に謁見した。

その少し前に、インド経由でローマに赴いた九州の天正少年使節と異なり、宗教てはなく通商を目的としたが、当時の日本はキリシタン弾圧、鎖国に向かっていたため、使節の目的は果たせなかった。

宮城県石巻市で復元船と複製の肖像画を見た記憶もあせないうちに、偶然ながら「ボルゲーゼ展」で実物の肖像画を見ることになった。

当時、支倉一行が着いたのは、美術館の建物であるヴィラ・ボルゲーゼが完成直後のことで、そこで使節団の歓迎の宴が催されたのだそうだ。そのときに、肖像画が描かれたのだろう。

ギリシア神話のヴィーナスや、イエスなど聖書の人物の中に、実直そうな日本の武士の肖像画があるのは何とも不思議な感じだった。
彼を身近に感じ、その苦労がしのばれた。

京都のボルゲーゼ展

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12月とは思えない陽気に誘われて、ぶらっと京都へ行った。
哲学の道は、ほとんど落葉していたが、ところどころ紅葉が映えて、また趣がある。観光客も少なくてよかったが、永観堂、南禅寺まで行くとさすがに観光バスが連なっていた。

疎水に沿って岡崎まで行き、ボルゲーゼ展を見た。
17世紀のイタリア美術の大パトロンであった枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼのルネサンスとバロックのコレクションを基にしているボルゲーゼ美術館の展覧会だ。

美術館は、ローマ北東部の広大なボルゲーゼ公園にあり、収集した絵画彫刻を飾るために造られたそうで、展示された絵も豪華な大邸宅に似合うものばかりだった。

ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」は気品があり、ボッティチェリ一派の「聖母子、洗礼者ヨハネと天使」はクリスマスにふさわしく、カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネ」の愁いを帯びた少年の表情が印象的だった。
その中に「支倉常長」の肖像画があった。仙台で複製画を見たばかりなので知人に出会ったような気がした。

帰りは、三条の「スマート珈琲」で一休み。ちょっと古風で落ち着いた雰囲気の店だ。日暮れが早いのは、さすがに12月だ。

ばじさん

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 8月に来たバジルの苗がすくすく育ち、二週間ほどで念願のトマトとモッツアレラとバジルのパスタができた。摘むときの香りがいい。
 パスタの他にもトーストにオリーブオイルを塗りバジルトーストにしたり、バターを塗りハムやチーズと一緒にのせたり、紅茶に浮かせたりと大活躍。
 旅に出かけている間は枯れないかと心配し、帰ったときは真っ先に水をやった。
 見目よく香りよく味もよしと、まさに一石三鳥だ。

 けれど11月も半ば過ぎるとさすがに緑が薄くなり葉も小さくなってきた。やっぱり冬には枯れてしまうのだろうか。

「お堂で見る阿修羅」

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 奈良の興福寺の仮金堂に、阿修羅(あしゅら)立像をはじめとする天平乾漆(かんしつ)像14体がそろって安置された。乾漆像とは、土台の上に麻布をかぶせ、その上に漆を塗って乾かし、その後、土台を取り去ったものらしい。
 また国宝・北円堂の運慶一門作の阿弥陀如来坐像なども公開された。四天王に踏んづけられた邪鬼が、気の毒ながらユーモラスだった。
 ガラスの陳列ケースの中の「美術品」でなく、お堂の中にあるので、どの像にも本来の威厳が感じられた。

 とりわけすばらしかったのが阿修羅像だった。阿修羅は、古代インド神話の激しい怒りを表す軍神という。けれど、この阿修羅像は、三つの顔と六本の腕を持つ細身の少年で、繊細な美しさと同時に強さも感じさせる。仏像を魅力的だと思ったのは、初めての経験だ。