三沢空港から機内に乗り込み、飛行機が動きだしていざ離陸というときに、「三沢空港は米軍の戦闘機の発着がよくあり、今も五分ほど待つよう指示がありました」という機長のアナウンスがあり、目の前を轟音とともに十機弱の米軍機が次々と滑るように着陸したり、さっと飛び立ったりした。三沢が基地の街であるのを実感した。
その後、私が乗っている「民間機」も無事離陸した。天気がよいので地上の山々がよく見えたが、やがて、遥かかなたに、雲からすっくとそびえ立つ富士山の姿が見えてきた。堂々として美しい日本一の山だった。
三沢空港から機内に乗り込み、飛行機が動きだしていざ離陸というときに、「三沢空港は米軍の戦闘機の発着がよくあり、今も五分ほど待つよう指示がありました」という機長のアナウンスがあり、目の前を轟音とともに十機弱の米軍機が次々と滑るように着陸したり、さっと飛び立ったりした。三沢が基地の街であるのを実感した。
その後、私が乗っている「民間機」も無事離陸した。天気がよいので地上の山々がよく見えたが、やがて、遥かかなたに、雲からすっくとそびえ立つ富士山の姿が見えてきた。堂々として美しい日本一の山だった。
まず、秋田県秋田市、旧佐竹藩の久保田城跡、千秋(せんしゅう)公園をのぞいたあと、秋田新幹線こまちで角館(かくのだて)へ。ここは、古いものは二百年前に建てられた武家屋敷が保存されている。黄色く色づいた木々を背景にした武家屋敷が並ぶ通りは、江戸時代の雰囲気。その中の青柳家の親族の小田野直武は、平賀源内に学び、解体新書の表紙や挿絵を描き、秋田蘭画といわれた油絵も描いた画家だった。ここは又、しだれ桜の名所。桜皮細工の実演をしていたので茶匙を買った。
次は、抱返り(だきかえり)渓谷へ。青緑色の渓流に映える原生林の紅葉を眺めながら、つり橋を渡り、遊歩道を行くと、目の前に勢いよく水がほとばしる滝が現れた。
翌日は、岩手県盛岡市から東北新幹線はやてで青森県八戸市へ。そこからバスで行き、奥入瀬(おいらせ)渓流に沿って歩く。奥入瀬川は、十和田湖から流れる唯一の川で太平洋に注いでいる。年中豊富な水量でゆったり流れるので、川岸の丸太や流れの中の石には緑の苔が生えている。せせらぎの音を聞きながら黄色の落ち葉が降りそそぐ中を歩いていくと、時間の感覚がなくなってしまう。
十和田湖で遊覧船に乗り湖を渡る。十和田湖は、青森県と秋田県にまたがった湖で、湧き水のため透明度が高い。濃い青色の水に、様々な色合いに染まった周囲の山々がよく映える。東北の紅葉は、山々全体がブナの黄色に染まり、その所々に、カエデのオレンジやナナカマドの赤、マツの緑が混ざっているスケールの大きな美しさだ。船を降りると、風が冷たく、冬が近いのが感じられる。湖畔の高村光太郎の乙女像を見てから、十和田プリンスへ。ちなみにここは秋田県。ホテルのロビーに本物の暖炉があり火が燃えていた。暖炉の火を見ていると、身も心もあたたかくなって、ほっとする。ついでにFloo Powderが使えそう。
翌日は、十和田観光電鉄で青森県十和田市から三沢市へ出て帰路についた。リンゴがおいしそうだったのでどっさり買い込んでしまい重かった。雨模様でハラハラさせられたが、要所要所では日が射し、晩秋の美しさを堪能した旅だった。
宮城県仙台市は、杜(もり)の都。樹々の緑が濃くて美しく、湿気が少なくて暑さがしのぎやすい。ちょうど七夕祭りで、くす玉に長い吹き流しをつけたような巨大な七夕飾りが所せましとぶら下がっている。色とりどりの紙のジャングルの中を歩いているような気がする。
翌日は、JR東北本線で南下し、槻木(つきのき)駅で阿武隈(あぶくま)鉄道に乗り換え。これは阿武隈川に沿って走り、福島まで行く私鉄。このあたりの電車は扉の開閉を乗客が自分でやらなくてはならないのが珍しい。
丸森駅で途中下車して阿武隈川の遊覧船に乗る。真夏とは思えない涼しい風に吹かれながら深緑の渓谷を眺めていたら、なんと渇水で船底が川底にかすってしまいエンジン不調のため川の真ん中で立ち往生。救助船を待って、こちらの船がロープで結ばれて引き返し、船を乗り換えてやり直す羽目になった。阿武隈川は「暴れ川」で、水かさが増すときは、川端の数メートル上の国道を越すほどになることもあるそうだ。
三日めは、福島県郡山(こおりやま)市からJR磐越西線(ばんえつさいせん)で喜多方(きたかた)市へ。ここは、立派な蔵屋敷がたくさん残っている。昔、火災が多かったため蔵を住居にしたそうだ。壁の厚さが、なんと30センチとか。醤油味だけの「たまりせんべい」とラーメンが名物。
四日めは、福島県会津若松(あいづわかまつ)市。幕末の片方の主役、会津藩の城下町。至るところに歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気の街だ。鶴ヶ城、家老の武家屋敷などが再建され、道路も、直進できないようにして敵の来襲をしにくくさせるため鍵形になっている十字路があちこちに見られる。
飯森山(いいもりやま)のふもとの滝沢本陣は、戊辰戦争時の大本営があった場所で、白虎隊が、土方歳三ら新撰組に護衛されて出陣した所だそうだ。当時の戦いの弾痕や刀傷跡がたくさん残っている。
最後は福島空港で桃ジャムを買った。深い緑の葉の木々や山々と、爽やかな風と、何種類ものセミの声が印象的な旅だった。
(ちなみに、今日、北京五輪で北島選手が100m平泳ぎで二連覇達成したそうだ。)
いわき市は、東北地方の入り口、福島県の南東部にあって、その昔、常磐炭田の中心として栄えたところ。「いわき(岩木)」は江戸時代から石炭を意味することばだったそうだ。そこにある湯本は今ではひなびた温泉町で、地元の人が気軽に通う温泉や足湯があちこちにある。ここでは時の流れもゆったりしているように感じられる。
札幌雪祭りが、ニュースになっていた。おととし行って、雪像の大きさと多さに驚いたのを思い出す。さとらんど会場も広かった。広い青空の下、あんなにたくさんの雪を見たのは初めてだ。唯一の難点は、雪道が滑ること。もこもこに着膨れておぼつかない足取りでおっかなびっくり歩いているそばを、現地の若い女性が軽装でさっそうと歩いていった。
名古屋から大阪までノンストップのアーバンライナーに乗った。
愛知、三重、奈良、大阪と新幹線とは別ルートで行くのがおもしろい。瓦屋根の家々が線路の近くに並び、風景も少し違う。
静岡県西部の浜名湖あたりは、昔、遠江(とおとうみ)と呼ばれた。
滋賀県琵琶湖あたりは、近江(おうみ)だが、子ども時代は、地理的にも心理的にも浜名湖に近かったので、どうして近い方が遠くて、遠い方が近いのだろうと不思議に思っていた。昔の日本の中心、京都から見た「近い、遠い」だということが分ったのはかなり後だ。
岩手県盛岡市からバスで小岩井農場へ。「小岩井」は、明治時代に農場の開墾を始めた創業者三人の名字からの命名。宮澤賢治も何度も訪れ、作品にも登場する。火山灰土の原野に木を植えたところから始めたそうで、新しいところでは、1964年から毎年、印をつけて杉の木を植林していて、一年ごとの木の成長が一目で分る林がある。岩手山を背景にした広い牧場の一部を観光用にしていて、緑の「まきば」の中でソフトクリームを食べたり、シープドッグがヒツジを追って頑張る姿を見たりすることができる。
近くの雫石(しずくいし)泊。スキー場やゴルフ場がそばにある緑の山に囲まれた高原。昼間は暑かったが、夕方になると、さっと涼しい風が吹き、真夏とは思えない。
翌日は、新幹線「こまち」で秋田市へ。夜は、竿燈(かんとう)祭り。「竿燈」とは、提灯を竿につけて稲穂を表したもので、大きいものは、46個の提灯をつけ、長さ12m、重さ50kgもある。それをお囃子と「どっこいしょー、どっこいしょ」のかけ声をバックに、片手、その後は手放しで肩、腰、おでこと、支える個人技が見どころ。台風の後の強風で見物席にもドサッと倒れかかるので、近くで見るとなかなかスリルがある。遠くから見ると、ロウソクの光が揺らめく竿燈が、暗い夜空にいくつもゆらゆらと浮かび上がり、幻想的な美しさがある。
秋田県は、日本海に面し、江戸時代までは北前船が行き交った港があり、米どころなので、山がちな岩手県とは風土が違うようだ。秋田市の北西に位置する男鹿半島独特の風習は、「なまはげ」。大晦日に、鬼の面をかぶった「なまはげ」が家々をまわり、子どもたちを脅して諭し、家の主人がもてなす。
「五社堂」は、その昔、海の向こうから来た五匹の鬼を祭ったと伝えられる所で、これが「なまはげ」の元祖という。そこへ上るまでの、鬼が積んだといわれる公称九百九十九段の素朴な石段が、もうとても大変だった。上った所には、五つの木造の社が緑と霧の中に並んでいた。
霧と雨の中、秋田空港を飛び立った飛行機の窓から見ていると、ぐんぐん上昇した後、重くたれ込めた雲の上に出た。そこは、薄雲たなびく水色の空が広がる、穏やかな晴れた夏の夕暮れで、一面の雲海に夕日が、ゆっくりと沈んでいった。地上は、雲の海の底だ。
広島県東部、福山市の鞆(とも)の浦は、瀬戸内海沿岸の中ほどに位置し、海に浮かぶ島々の向こうに四国を望む。古くから「潮待ちの港」として栄え、大伴旅人が歌を詠み、江戸時代から北陸や北海道と大阪を物資を積んで行き来した北前船が出入りし、幕末には坂本龍馬率いる海援隊の商船「いろは丸」が遭難後、上陸した。
福山の北から、井原(いばら)鉄道の一両編成の電車が、山陽本線と平行に東の方、倉敷の北まで走る。
途中の駅、岡山県井原は、絵本「11ぴきのねこ」(馬場のぼる作)で、ねこたちが大きな魚を寝かしつけるために歌う子守歌「ねんねこさっしゃれの発祥の地。
そこから東に向うと旧山陽道沿いの駅、矢掛(やかげ)に着く。ここは、江戸時代の参勤交代の大名などの宿泊所、「本陣」「脇本陣」の屋敷が、当時のままに残る。宿泊する大名は、寝具、風呂桶、台所用具、食器、保存食糧などすべて持参し、生鮮食品だけ宿場町で現地調達した。一方、宿場町側は、最低限の宿賃は受け取るものの持ち出しが多く、又、幕府の使いは宿賃無しで泊まる決まりで経済的に大変だった。特に本陣は、よほどの資産家でないとやっていけず、ここ石川家は、昭和まで続いた富裕な造り酒屋だったので、屋敷が現在まで残ったそうだ。
鞆(とも)の海そして、井原(いばら)線沿いの山と田、共に過ぎ去った賑やかな歴史を忘れさせる穏やかでのどかな風景が広がり、海や緑を渡る凉風が心地良く、時間がゆったりと流れていた。
出雲大社は、長い長い参道の奥に、深い緑の山々を背景にして苔むす本殿が鎮座している。古代ここには、直径三メートルもの太い柱を九本使った巨大な社が建っていたらしい。その柱は、三本の丸太を合わせて結わえたものを芯にして作られていた。歴史博物館に、掘り出された柱の跡とともに、近くの遺跡から出土した青銅の剣358本がまとめて展示されていて壮観だった。ここに祭られている大国主命(おおくにぬしのみこと)は、因幡(いなば)の白ウサギや国譲り神話で有名だが、大和朝廷の祖先に破れたものの相当勢力のあった人物だったようだ。
宍道湖に沿って、水田の間をのんびりと走る一畑(いちばた)電車で、松江に向かう。松江は落ち着いた雰囲気の城下町。松江城は、木造のこじんまりとした実戦用の城で、青空と松の緑に黒い板壁が映える。
静かな宍道湖畔で夕暮れを待つ。頭上の広大な薄青の空から対岸に目をやると、低空に広がる灰色の雲と、藍色の山の端との間をずっとオレンジ色に染め、湖面に、輝くオレンジ色の光を投げかけながらゆっくりと夕日が沈んでいった。もう七時半近くになっていた。