能の観世流の「高砂」の舞を見た。これは「相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でる爽やかでおめでたい早春の能」で、住吉大明神が舞う。神を舞うときは、内にエネルギーを溜めて舞うのだそうだ。分かりやすく外に発散しない様式美の極致が、能の世界かと思った。
能の観世流の「高砂」の舞を見た。これは「相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でる爽やかでおめでたい早春の能」で、住吉大明神が舞う。神を舞うときは、内にエネルギーを溜めて舞うのだそうだ。分かりやすく外に発散しない様式美の極致が、能の世界かと思った。
狂言の茂山逸平と日舞の尾上菊之丞(青楓改め)の共演の舞台を観た。狂言と舞踊それぞれに古典作品として在る「茶壷」を、狂言の台詞と日踊を組み合わせて新しい作品に仕上げていた。旅人の茶壷をスリが騙して取り上げようとするが、結局、どちらが持ち主かを裁く代官に騙し取られてしまう。代官の前で茶の由来を語る踊りをスリが真似しながら踊るところが秀逸。古い作品をそのまま伝えるのでなく、今に合わせて発展させていくのも伝統の継承だと思った。
藪医者が、天から落ちて腰を痛めた雷神に出会った。雷神は、治療の御礼に向こう八百年間、干ばつも水害も起こさないという約束をしてくれた。とりあえず今から八百年間平穏だったら、どんなに良いだろう。この狂言が演じられた四百年前の室町時代の人々と、願いは同じだ。
能の音楽を囃子(はやし)という。向かって右から能管(のうかん)という竹の横笛、小鼓、大鼓、太鼓という順に並ぶ。謡(うたい)は一番右手に座る。
弦楽四重奏などは、少し扇形に位置して互いにアイコンタクトなどで息を合わせるが、囃子の場合は、横一列に並んでいて脇見も禁じられ、掛け声や気配を読むことで調子を合わせるそうだ。そして、正座して背筋をスッと伸ばして演奏する姿は美しい。これも体を揺らして熱演するヴァイオリニストとは大きく違う。西洋音楽に馴染んだ身としては、わが国の伝統音楽ながら目新しいことばかりだ。
桜がほぼ満開に近い日に、豆腐のように誰からも愛され飽きが来ず味わい深いという意味で「お豆腐狂言」と名乗る茂山一門の「春爛漫:茂山狂言会」を観た。
演目は、都に年貢を納めに行った筑紫と丹波の百姓が、笑う競争をするはめになる「筑紫の奥(つくしのおく)」、主人の恋文を運ぶ途中で破ってしまい焦る太郎冠者と次郎冠者の「文荷(ふみにない)」、そして、珍しく有名人の主人公、在原業平が道中の茶屋で、餅の代価に不細工な娘を押し付けられ右往左往する「業平餅(なりひらもち)」。
最後の演目は、茂山千作から、双子のひ孫までの四代が共演するというもので、楽しいと同時に未来へ続く伝統を感じさせられた。
最初は、素囃子の「神楽」。天岩戸にこもったアマテラスを呼び出すため、その前で舞踊りが演じられた。その様子を描いたもの。
次は、野村万作が鍋売りを演じる「鍋八撥(なべやつばち)」。新しい市の代表の座をめぐって、鞨鼓(かっこ)売りと鍋売りが争う。鞨鼓というのは鼓(つづみ)のような楽器で、それを打ちながら舞う鞨鼓売りに負けじと、鍋売りが鍋を打ちながら舞う。最後に鍋が割れてしまうが「数が増えてめでたい」という落ちになるため昔は祝言で演じられたそうだ。
最後は、「釣針(つりばり)」。独り者の主人が太郎冠者を連れ、妻を得ようと西の宮の夷(えびす)に参詣すると釣り針を授かる。その釣竿で、太郎冠者が妻と腰元を釣り上げる。最後に自分の妻も釣り上げたのだが、顔を見て逃げ出すはめになる。萬斎演じる太郎冠者の「釣ろうよ、釣ろうよ~」という掛け声がおもしろい。
いずれも新春にふさわしく、また今も「えべっさん」で親しまれている西宮神社のある兵庫県西宮市で行われたので、ぴったりの演目だった。
能の楽器を演奏する人たちを「囃子方(はやしかた)」という。
「はやす」とは「映えるようにする、ひきたてる」という意味で、「囃子方」は、単なる伴奏でなく舞や謡を盛り上げる役目を持つ。笛と、小鼓(つづみ)、大鼓、太鼓の三つの打楽器が基本で、それぞれの楽器に流派があり世襲で受け継がれている。
向かって右端が「能管(のうかん)」という竹の笛。わざと揺らぎのある不安定な音で登場人物の感情をあらわす。
右から二番目が小鼓。左手で右肩の上に構えて、右手で打つ。湿り気を与え、響きのあるトンという音がする。
その隣が、小鼓とペアになる大鼓。こちらは左腰の脇に構えて、右手で打つ。演奏前に炭火で乾かすため、カーンという鋭い音がする。
左端が太鼓。面の真ん中を二本のバチで打ち、コンコンという軽い音がする。
互いに息を合わせるためにかける掛け声が特徴的で、音程も不定で、間(ま)が大事という、すべて音符で埋められた西洋音楽とは正反対の世界だ。
扇を持つ謡が入れば五人囃子になる。気が早いが来年のお雛様を飾るときには並べ方に気をつけよう。
琵琶の語りを聴いた。平家物語で、那須与一が扇の的を射る場面だった。琵琶はギターほどの大きさだったが、縦にかまえて、大きなイチョウの葉のようなバチで奏していた。
時代はさかのぼるが、吉田神社の節分祭の儀式、「鬼やらい」の方相氏(ほうそうし)で連想される源博雅(みなもとのひろまさ)が好んだ琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を思い出した。
国立文楽劇場で「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を見た。こじんまりした一階だけの客席で、語りの太夫(たゆう)と伴奏の三味線一人ずつで舞台が進行するのにちょうどいい広さ。字幕のおかげで初心者にもよく分かった。台本は、大阪のことばで書かれていて、今日の「網島」始め大阪の地名がどっさり出てくる。ことば遊びも随所にあって、舞台の規模などシェークスピア劇を連想させるところもある。最も、内容は「ロミオとジュリエット」の若さからくる一途な情熱とはまったく違う。まず、男が感情豊かでやたらに泣き、女がしっかりしている。二人は、周りに気を使い、自分たちの名誉のため、また筋を通そうとした挙句に心中せざるをえなくなる。これを「義理」と表現するらしい。四時間にわたる長丁場だったが、クライマックスでは人形がひとりでに動いているように見えた。
昨日、中島敦原作、野村萬斎構成・演出の「敦ー山月記・名人伝」を見にいった。原作ほとんどそのままの語りに絶妙な間合いで尺八と鼓が入り、能狂言の所作でシンプルな舞台装置の中に、中島敦の世界があらわれ出る。「山月記」では、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のために虎になった李徴を演じる野村万作の迫力が圧倒的。「名人伝」は、弓の名手紀昌を演じる野村萬歳のむだのない動きが美しく狂言らしいコミカルな演技で笑わせたが、見終わってから怖くなってきた。