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ハリーポッターと死の聖物 (Harry Potter and the Deathly Hallows)

第三十四章:また森へ

 ついに真実が分かった。ハリーは、うつぶせになって校長室の汚い絨毯に顔を押しつけていた。そこは、以前、勝つための秘密をまなんだと思った場所だったが、自分が生きのびる運命ではなかったということが、とうとう分かった。彼の仕事は、死が両腕を広げて迎えるところに、冷静に歩いていくことだった。その道に沿って、彼は、ヴォルデモートの残された命のつながりを始末することになっていたのだ。そうして、最後に、わが身を守るため杖をあげずに、ヴォルデモートの行く手にわが身を投げだせば、すっきりと片づき、ゴドリック盆地でなしとげられるはずだった仕事が終るだろう。どちらも生きることはなく、どちらも生きのびることはできないのだ。

 胸の中で心臓が激しく打っていた。死を恐れている中で、彼を生かしておこうとして、心臓が、よけいに激しく雄々しく打ちつづけるとは、なんとふしぎなんだろう。けれど、それは止まらなくてはならない。それも、まもなくのことだ。心臓の鼓動を数えることができた。立ちあがって、最後に城をとおって歩いていき、校庭に出て、森の中に入っていくのに、どのくらいの時間がかかるのだろうか?

 床に倒れて、体の中で葬式のドラムが打ちならされているあいだに、恐怖が押しよせてきた。死ぬのは痛いだろうか? これまでずっと、死は、迫ってくるから逃げだすものとしか考えてこなかったので、死そのものについて考えたことがなかった。死への恐れよりも、生きようとする意志の方が、いつもとても強かった。しかし、今度は、逃れよう、ヴォルデモートから逃げようという気はけっしておきなかった。それから逃げるときは終った、と分っていた。残されているのは、それ自体だけ、つまり死ぬことだけだった。

 もし、最後にプリベット通り四番地を出た夏の夜、気高いフェニックスの羽の杖が救ってくれたときに、死んでいさえいれば! もし、ヘドウィグのように、何がおきたのか分らないくらい、とてもすばやく死ぬことができていたら! それとも、愛する誰かのために杖の前に身を投げだすことができたなら・・・今では、両親の死さえ、うらやましかった。自分の破滅に向って、血の凍るような気持ちで歩くのは、別の種類の勇気を必要とするだろう。指がかすかに震えたので、誰も見ていなかったけれど止めようと努力した。壁の肖像画は、すべて空だった。

 ゆっくり、とてもゆっくり、彼は、身をおこして座った。すると、いっそう生きているという感じがした。今までになく、自分の体が生きているということに気がついた。なぜ、自分の存在が、頭脳も神経も、鼓動を打つ心臓も、なんという奇跡だろうと、ありがたく思わなかったのだろうか? すべてが、いなくなってしまうのだ・・・いや、少なくとも彼が、そこからいなくなってしまうのだ。呼吸がゆっくり、深くなってきた。口と、のどが、からからに渇き、目も同じだった。

 ダンブルドアの裏切りは、ほとんど何でもなかった。もちろん、いつでも、もっと大きな計画があったのだ。ハリーが、あまりに愚かで、それが分らなかっただけだ。今、それが分った。ダンブルドアが、自分に生きることを望んでいるというのだという前提を、ハリーは疑ってみたこともなかった。ホークラクスをすべて取りのぞくのに、どのくらい長くかかるかということによって、命の長さが、ずっと決っていたのだと、今、分った。ダンブルドアは、ホークラクスを破壊する仕事をハリーに託した。それに従って、ハリーは、ヴォルデモートだけでなく、自分自身を、命につないでいる絆(きずな)を切りはなしつづけていたのだ! なんと巧みで、なんと的確に、他の命をむだにすることなく、その任務を一人の少年に与えたことか。その少年は、すでに殺されるために選びだされていて、その死が、不幸なできごとではなく、ヴォルデモートへの一撃になるのだ。

 それに、ダンブルドアは、ハリーが逃げださないで、たとえそれが自分自身の終りであっても、終りに向って進んでいくと分っていた。だから、わざわざ、知らせたではないか? ハリーが、それを自分の力で止められると悟った今、自分のために他の誰も死なせはしないと、ダンブルドアは、ヴォルデモートと同じように、分っていた。フレッド、ルーピン、トンクスが大広間に死んで横たわっている姿が、ハリーの心の目の前に押し入ってきた。一瞬、息をすることもできなかった。死は、せっかちだった・・・

 しかし、ダンブルドアは、ハリーを過大評価していた。ハリーは失敗した。ヘビが生きのこっているからだ。たとえ、ハリーが殺されても、ヴォルデモートを地上につないでいるホークラクスが一つ残っている。それが、誰か他の人にとって、もっと簡単な仕事だというのは事実だ。誰が、それをやるだろうか・・・もちろん、ロンとハーマイオニーなら、やるべきことを知っている・・・だから、ダンブルドアは、他の二人に打ちあけろと言ったのだろう・・・もし、ハリーが、少し早く自分のほんとうの運命に従ってしまったとしても、彼らが続けられるように・・・

 冷たい窓にうちつける雨のように、こういう考えが、自分が死ななくてはならないという明白な真実のかたい表面に打ちつけた。「僕は死ななくてはならない。」終えなくてはならない。

 ロンとハーマイオニーは、ずっと離れたところ、はるか遠い国にいるようだった。ずっと前に彼らと別れたような気がした。別れのことばも説明もしない。ハリーは、そう決めていた。これは、彼らがいっしょに行けない旅だし、彼らが、ハリーを止めようとしても貴重な時間がむだになるだけだ。ハリーは、十七才の誕生日にもらった使い古されたべこべこの金時計を見おろした。彼が降伏するまでに、ヴォルデモートが割りあてた時間の半分ちかくが過ぎた。

 彼は、立ちあがった。心臓は、気がくるいそうな鳥のように、肋骨に激しく打ちつけていた。それは、きっと残された時間がほとんどないと知っているのだ。きっと、最後のときまでに、一生分、鼓動しておこうと決心しているのだ。彼は、ふりかえらずに、校長室の扉を閉めた。

 城には、誰もいなかった。ひとりで歩いていくと、幽霊が歩いているような感じがして、もう死んでしまったような気がした。肖像画の人たちは、まだ額縁の中に、姿が見えなかった。あらゆるところが、ぶきみに静まりかえっていた。残っている命あるものは、すべて死者と弔い人で混みあっている大広間に集まっているようだった。ハリーは、透明マントをかぶって、階を下りていき、やっと、玄関に通じる大理石の階段を下りていた。彼の中のほんの少しの部分は、触られ、見られ、止められるのを期待していたのかもしれない。けれど、透明マントは、これまでと同じように、完全に姿をかくしたので、彼は、かんたんに玄関の扉のところに着いた。

 そのとき、ネビルが、彼にぶつかりそうになった。ネビルは、二人で校庭の遺体を運んでいるところだった。ハリーが見おろすと、また胃に鈍い衝撃を感じた。コリン・クリービーは未成年だが、ちょうどマルフォイ、クラブ、ゴイルがしたように、こっそり城に戻ってきたにちがいない。彼は、死んでも、とても小さかった。

 「ねえ、僕は、一人で運べるよ、ネビル」とオリバー・ウッドが言って、消防士がするように、コリンを肩にかつぎあげ、大広間に運んでいった。

、ネビルは、少しのあいだ、扉のわくにもたれて手の甲で額の汗をふいていたが、老人のようにみえた。それから、また遺体を運びいれるために、暗闇の中、石段を下りていった。

 ハリーは、ちらっと大広間の入り口をふりかえった。人々が、動きまわり、たがいに慰めあい、飲んだり、死者のそばにひざまずいたりしていた。けれど、愛する人たちの姿は誰も見えなかった。ハーマイオニーも、ロンも、ジニーも、他のウィーズリー家の人たちも、ルナも見えなかった。ハリーは、愛する人たちを最後にほんの一目見るために残された時間を与えられたように感じていた。けれど、そうしたら、自分には見るのを止める強い力があっただろうか? 誰も見られなくて、よかったのだ。

 ハリーは、石段を下りて暗闇に出ていった。もうすぐ早朝の四時だった。校庭の死の静けさが息をつめて、ハリーがしなくてはならないことをすることができるかどうか見守っているように思われた。

 ハリーは、遺体を探してかがんでいるネビルの方に歩いていった。

 「ネビル」

 「うわっ、ハリー、びっくりして心臓が止まりそうだったよ!」

 ハリーは、透明マントをぬいだ。その考えは、どこからともなく思いついたが、ぜったいに確実にしたいという望みから生まれた。

 「ひとりでどこに行くんだい?」ネビルが疑わしそうに聞いた。

 「みんな計画の一部なんだ」とハリーが言った。「僕が、しなくちゃならないことがある。聞いてくれ、ー、ネビル、ー」

 「ハリー!」ネビルが急に恐そうな顔をした。「ハリー、君、自分の身を差しだそうと思ってるんじゃないだろうな?」

 「違うよ」ハリーは、すらすらと嘘をついた。「とんでもない・・・これは、他のことだ。僕は少しのあいだ、姿を消すかもしれないけど。君、ヴォルデモートのヘビを知ってるか、ネビル? 彼は、巨大なヘビを飼ってる・・・ナギニという名前だ・・・」

 「聞いたことがあるよ、ああ・・・それが、どうしたの?」

 「それを殺さなくちゃならない。ロンとハーマイオニーは知ってる。けど、もし彼らが、ー」

 その可能性の恐ろしさに、ハリーは一瞬、息がつまりそうになって、話しつづけられなくなったが、なんとか気を持ちなおした。これは、一番だいじな点だ。ダンブルドアのようにならなくてはならない。冷静な頭で、代替要員、計画をやりとげる他の人を確保しておかなくてはならない。ダンブルドアは、自分が死んでも、まだ三人がホークラクスのことを知っていると分っていた。今、ネビルが、ハリーに代ってくれる。秘密を知るものが、まだ三人いるわけだ。

 「もし、彼らが、ー、忙しくて、ー、それで、君に機会があったら、ー」

 「ヘビを殺す?」

 「ヘビを殺す」ハリーが、くりかえした。

 「分った、ハリー。君は大丈夫なのか?」

 「大丈夫だ。ありがと、ネビル」

 しかし、ハリーが動きだそうとすると、ネビルが手首をつかんだ。

 「僕たちは、みんな戦いつづけるつもりだよ、ハリー。分ってる?」

 「ああ、僕は、ー」

 窒息しそうな気がして、ことばの最後が消えてしまい、ハリーは続けられなかった。ネビルは、それを変だとは思わないようだった。そしてハリーの肩をたたき、身を離して、遺体を探しにいってしまった。

 ハリーは、また透明マントをさっとかぶって歩きつづけた。遠くないところで、誰か他の人が、地面にうつぶせになった人の上にかがみこんでいた。三十センチしか離れていないところまで近づいたとき、それがジニーだということに気がついた。

 ハリーは立ちどまった。ジニーは、母親をささやき声で呼んでいる少女の上にかがみこんでいた。

 「大丈夫よ」とジニーが言っていた。「大丈夫。あなたを城の中に連れてってあげる」

 「でも、私、おうちに帰りたい」と少女がささやくように言った。「もう戦いたくないの!」

 「分るわ」とジニーが言ったが、その声がとぎれた。「そのうち、よくなるから」

 冷たさが波のように、ハリーの皮膚の上でゆれていた。夜に向って叫びたかった。そこにいることをジニーに知ってほしかった。そして、どこに行こうとしているか知ってほしかった。止めてほしかった。引きずりもどしてほしかった。わが家に送りかえしてほしかった・・・

 けれど、彼は、わが家にいた。ホグワーツが、彼にとって最初で最良の家だった。彼とヴォルデモートとスネイプ、その見すてられた少年たちは、みんな、ここを、わが家だと思ったのだ・・・

 ジニーは、けがをした少女のそばにひざまずいて、手を取っていた。非常な努力をして、ハリーは歩きだした。そばを通りすぎたとき、ジニーがふりむいたので、誰かが近くを通ったのを感じたのかと、バリーは思った。けれど、彼女に話しかけなかったし、ふりかえらなかった。

 ハグリッドの小屋が、暗闇からぼんやりとあらわれた。明かりもなく、ファングが扉のところで動きまわる音や、歓迎して吠える声もしなかった。ハグリッドのところを尋ねたことすべてが思いだされた。火の上にかかった銅のやかん、ロックケーキと巨大な幼虫、彼の大きなあごひげのある顔、ロンがナメクジを吐きだし、ハグリッドがノーバートを助けるのを、ハーマイオニーが手つだった・・・

 ハリーは、歩きつづけ、森のはずれに着いて立ちどまった。

 デメンターの群れが木々のあいだをすべるようにやってきた。そのうすら寒さが感じられたが、その中を安全に通りぬけられるかどうか分らなかった。パトロナスを出す力は残っていなかった。もう自分の震えを止めることができなかった。結局、死ぬのは、それほどたやすくはなかった。彼が息をすうたびに、草の匂い、顔に感じる涼しい大気が、とても貴重だった。人々が、何年も何年ものあいだ、むだにしてきた時間があって、とても多くの時間が引きのばされてきたのだと考えた。彼は、一秒一秒にしがみついた。同時に、もうこれ以上前に進めないと思った。けれども進まなくてはならないのは分っていた。長い試合が終った。スニッチが取られた。空中から下りてくるときだ・・・

 スニッチだ。ハリーは、弱々しい指で、少しのあいだ、首にかけた袋の中をさぐって、それを引きだした。

 「われは、終りに開く」

 せわしなく激しく息をしながら、ハリーはそれを見おろした。できるだけゆっくり動くための時間が欲しい今こそ、理解の力が、スピードをあげて、近道をしてきたかのように、とても早くやってきた。これが、終りだ。これが、そのときだ。

 彼は金色の金属を口に押しつけ、ささやいた。「僕は、死のうとしている」

 金属の殻が、われて開いた。彼は、震える手をさげ、マントの中でドラコの杖をあげて、小声でいった「ルーモス(光よ)」

 ぎざぎざの裂けめが中央にはしっている黒い石が、二つにわれたスニッチの中に入っていた。復活の石には、上位の杖をあらわす垂直の線の筋があった。透明マントと石をあらわす三角形と丸も、まだ、それと見わけられた。

 そして、考えなくても、彼らを呼びもどすことが問題ではないと、ハリーに分った。だって彼らのところに行こうとしているのだから。ハリーが、彼らを連れてきたいのではなく、彼らが、ハリーを連れにくるのだ。

 ハリーは、目を閉じて、手の上で石を三回まわした。

 何がおきたか分った。まわりで、かすかな動きの音が聞えたので、森の中の、学校と外との境のしるしの木の枝がちらばった地面を、はかない姿が、足を動かして進んでくるのが分ったのだ。そこで目を開けて見まわした。

 彼らは、幽霊でもなく、ほんとうの肉体でもなかった。ずっと昔、日記からぬけだしたリドルに、もっとも似ていた。あのリドルは、記憶が、ほとんど固体になったもので、生きている体より、実体はないが、幽霊よりは、はるかに存在感があった。彼らは、ハリーの方に進んできた。どの顔にも、同じ愛情にあふれたほほえみが浮かんでいた。

 ジェイムズは、ハリーとちょうど同じ身長だった。死んだときと同じ服装で、髪の毛がくしゃくしゃで、眼鏡が、ウィーズリー氏のと同じように少しかたむいていた。

 シリウスは、背が高く、ハンサムで、生前、ハリーが知っていたより、はるかに若かった。両手をポケットに入れ、にやっと笑いながら、大またでゆったりと気楽に歩く姿が優雅だった。

 ルーピンも、若くて、それほどみすぼらしくはなかった。髪の色がもっと黒っぽく、ふさふさしていた。青春時代にしょっちゅううろつきまわった見なれた場所にもどってうれしそうだった。

 リリーが、いちばん、大きくにっこりと笑いかけていた。ハリーに近づいてくると、長い髪を後ろにはねあげ、ハリーとそっくりな緑色の目で、いくら見ても見たりないとでもいうように、むさぼるように彼の顔をながめまわした。

 「とても勇敢だったわね」

 ハリーは、口がきけなかった。彼女を見るのがとてもうれしかった。立ったまま永久に彼女を見ていたいと思い、それでじゅうぶん満ちたりるという気がした。

 「君は、もうすぐ、そこに着く」とジェイムズが言った。「とても近くだ。僕たちは・・・君をとても誇らしく思っているよ」

 「痛い?」

 子どもっぽい質問が、止められないで、ハリーの口からこぼれ落ちてしまった。

 「死ぬことか? ちっとも」とシリウスが言った。「眠りにおちるより、すばやくて、かんたんさ」

 「それに、彼は、早くやりたがっている。終らせたがっているから」とルーピンが言った。

 「あなたに、死んでほしくなかった」ハリーが言った。そのことばは、思わず飛びだした。「あなたがたの誰にも。ごめんなさい、ー」

 彼は、他の誰よりもルーピンにむかって呼びかけ、懇願するように言った。「ー、赤ちゃんが生まれたばかりなのに・・・リーマス、ごめんなさい、ー」

 「僕も、残念だよ」とルーピンが言った。「息子が、どんな子に育つか見ることができなくて残念だ・・・だが、彼は、なぜ僕が死んだか知るだろう。そして、彼が理解してくれることを望むよ。彼が、もっとしあわせに生きられる世界を、私が、つくろうとしたことをね」

 森の中心から発したようなひんやりとした風がふいてきて、ハリーの額の髪をもちあげた。彼らが、行けとは言わない、それは自分で決めなくてはならないことだと、ハリーに分った。

 「いっしょにいてくれる?」

 「いちばん最後まで」とジェイムズが言った。

 「彼らには、あなたたちが見えないの?」とハリーが尋ねた。

 「僕たちは、君の一部分なんだ」とシリウスが言った。「他の誰にも見えないさ」

 ハリーは、母を見た。

 「僕のすぐそばにいて」と、そっと言った。

 そして、彼は歩きだした。デメンターの寒さにも、負けることはなかった。彼は、連れといっしょに、その中を通っていった。彼らは、パトロナスの役割をした。彼らはいっしょに、古い木々が密集して生えていて、枝がからまりあい、根が地面でふしこぶだらけにねじまがっているところを歩いていった。ハリーは、暗闇の中で、透明マントをしっかり体にまきつけ、森の奥深くにどんどん進んでいった。ヴォルデモートが、どこにいるのか正確には分らなかったが、見つけられると確信していた。彼のそばには、ほとんど物音をたてずに、ジェイムズ、シリウス、ルーピン、リリーが歩いていた。彼らがいてくれることで、勇気が出て、一歩ずつ、前に進むことができた。

 ハリーの体と心が、妙に離ればなれになっているような気がした。意識的に歩けと命じないのに、手足が動いていた。まるで、彼は、もうすぐ去ろうとしている体の運転手ではなく、乗客であるかのようだった。ハリーにとって、森の中で、そばを歩く死者たちの方が、城に残る生者たちより、はるかに実在するものだった。人生の終りにむかって、ヴォルデモートにむかって、つまずいたりすべったりしながら歩いていく今、ロン、ハーマイオニー、ジニー、その他の人たちはみな幽霊のように感じられた・・・

 ドシンという音とささやき声がした。他の生きているものが、近くで身動きした。ハリーは、透明マントを着たまま立ちどまり、こっそり見まわて、耳をすませた。母と父、ルーピンとシリウスも立ちどまった。

 「誰かいるぞ」すぐそばで、がさつなささやき声がした。「やつは、透明マントを持っている。ひょっとして、ー?」

 二人の人影が、近くの木の後ろからあらわれた。彼らの杖が輝いていたので、ヤクスリーとドロホフが暗闇をのぞきこみ、まっすぐハリーと母と父とルーピンとシリウスが立っている場所を見ているのが、ハリーに分った。彼らには何も見えていないようだった。

 「ぜったいに何か聞えた」とヤクスリーが言った。「動物、だと思うか?」

 「あの頭のいかれたハグリッドが、ここにはどっさり飼っているからな」とドロホフが肩ごしにふりかえりながら言った。

 ヤクスリーが腕時計を見おろした。

 「もうすぐ時間切れだ。ポッターは言われたとおりにしなかった。やつは来ない」

 「だが、彼は、ぜったいにポッターが来ると思っているんだ! 機嫌が悪いだろうよ」

 「戻ったほうがいい」とヤクスリーが言った。「これから計画がどうなるか聞こう」

 彼とドロホフは、向きをかえて、森の奥へ歩きだした。ハリーは、行きたいところに、正しく連れていってくれると分っていたので、その後をついていった。横を見ると、母がほほえみかけ、父が勇気づけるようにうなずいた。

 ほんの数分歩いていくと、前方に光が見え、ヤクスリーとドロホフが、木々のない広い空き地に踏みだした。そこは、怪物アラゴグが昔すんでいた場所だと、ハリーに分った。巨大な巣の残りが、まだそこにあったが、アラゴグが産んだ子孫の群れは、デス・イーターに追いはらわれて、そのせいで、戦いにくわわることになったのだ。

 空き地のまんなかで、たき火が燃えていた。その、ちらちらまたたく光が、まったく沈黙して、ゆだんなく見はるデス・イーターの一団を照らしていた。まだ覆面やフード姿の者たちもいたし、顔を見せている者たちもいた。二人の巨人が一団の端に座っていて、その場に巨大な影を投げていた。彼らは、岩を荒くけずったような残忍な顔をしていた。人狼のフェンリルが、こそこそ隠れて長いつめをかんでいるのや、金髪のロールが血の出た唇をたたいているのが見えた。ルシウス・マルフォイが、うち負かされて恐がっているのや、ナーシッサの目がおちくぼんで、ひたすら心配そうなのも見えた。

 すべての目がヴォルデモートをじっと見つめていた。彼は、頭をたれて立っていた。体の前に、白い手で上位の杖をにぎっていた。祈っているのかもしれないし、さもなければ、黙って心の中で数えているのかもしれなかった。ハリーは、その場の端にじっと立っていたが、子どもが、かくれんぼをするときに数えるのを、ばかばかしくも想像していた。ヴォルデモートの頭の後ろに、巨大な後光のようにみえる輝く魔法の檻の中で、巨大なヘビのナギニが、まだ、回ったりとぐろを巻いたりしながら浮かんでいた。

 ドロホフとヤクスリーが一座にくわわると、ヴォルデモートが顔をあげた。

 「やつの形跡はありません、閣下」とドロホフが言った。

 ヴォルデモートの表情は変らなかった。赤い目が、たき火の光で燃えたったようだった。そして、ゆっくりと上位の杖を指のあいだから引きぬいた。

 「閣下、ー」

 ベラトリックスが口を開いた。彼女は、ヴォルデモートのいちばん近くに座っていたが、髪も服装も乱れていた。顔は少し血が流れていたが、他は無傷だった。

 ヴォルデモートが手をあげて黙らせたので、彼女は、それ以上言わないで、彼を崇拝するようにうっとりと見つめていた。

 「彼は来ると思っていた」とヴォルデモートが、飛びはねる炎を見ながら、高く、はっきりした声で言った。「来ると期待していた」

 誰も口をきかなかった。彼らは、ハリーと同じくらい恐がっているようにみえた。ハリーの心臓は、今から投げすてようとしている体から逃げだそうと決心したかのように、肋骨に激しく打ちつけていた。透明マントをぬいだとき、両手に汗をかいていた。それから、マントを、杖とともにローブの中に押しこんだ。戦いたいという気をおこしたくはなかった。

 「俺は、どうやら・・・まちがっていた」とヴォルデモートが言った。

 「そうではない」

 ハリーは、恐がっているように思われたくはなかったので、集められるだけの力をふりしぼって、できるだけ大きな声で、そう言った。復活の石が、感覚のない指のあいだからすべりおちた。そして両親とシリウスとルーピンが消えるのを、目の端で見ながら、たき火に照らされたところに進みでた。その瞬間、ヴォルデモート以外の誰も重要ではないと感じた。ただ二人だけだった。

 その幻覚は、あらわれるとすぐに消えさった。巨人がほえ、デス・イーターがいっせいに立ちあがった。たくさんの叫び声、あえぎ、笑いまでおこった。ヴォルデモートは凍りついたように、その場に立っていたが、赤い目がハリーを見つけると、ハリーが彼の方に進んでいくのをじっと見つめていた。二人のあいだには、火だけしかなかった。

 そのとき、叫び声があがった。

 「ハリー、よせ!」

 ハリーがふりかえると、ハグリッドが近くの木に固くしばりあげられていた。そして必死にもがくので、その巨大な体が、頭上の枝をみしみしとゆすった。

 「よせ! よせ! ハリー、何てことを、ー?」

 「黙れ!」とロールが叫んで、杖を一ふりすると、ハグリッドは静かになった。

 ベラトリックスは、さっと立ちあがると、胸を波うたせて大きく呼吸しながらヴォルデモートからハリーへと熱心に見つめた。動いているものは、炎と、ヴォルデモートの頭の後ろの輝く檻の中でとぐろを巻いたりほどいたりしているヘビだけだった。

 ハリーは、しまっておいた杖が胸に当たる感じがしたが、引きだそうとはしなかった。ヘビが、とてもしっかり保護されているので、もし、杖をなんとかナギニに向けたとしても、先に五十もの呪文にうたれるのが分っていたからだ。まだ、ヴォルデモートとハリーは、たがいに見あっていた。それから、ヴォルデモートは少し首をかしげて、前に立っている少年について考えた。唇のない口の形がまがって、とても陰気な笑いがうかんだ。

 「ハリー・ポッター」彼は、とても静かに言った。その声は、パチパチはぜる火の一部のようだった。「生きのびた少年」

 デス・イーターの誰も動かなかった。彼らは待っていた。すべてのものが待っていた。ハグリッドがもがいていた。ベラトリックスは息をきらせていた。ハリーは、なぜか分らないがジニーのことを考えた。それから彼女の怒りくるった表情と、唇の感触を、ー

 ヴォルデモートが、これから自分がやったら、どうなるのかと、好奇心にあふれた子どものように少し首をかしげたまま、杖をあげた。ハリーは、赤い目を見かえして、今すぐ、やってほしいと願っていた。まだ自分が立っていられるうちに、自制心をうしなう前に、恐れをさらけだす前に、ー

 口が動くのと、緑色の閃光が見えた。そしてすべてが、なくなった。
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