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The Lord of the Rings カレンダー === まえがき 1.jpg J.R.R.Tolkienは、「The Lord of the Rings」を1937年12月16日から19日の間に書き始めた。「The Hobbit」が、その三ヶ月前に発売されるやいなや大成功を収めたので、Tolkienの出版社George Allen & Unwinが(彼の意向に反して)続編を書くようにと強く勧めたのだ。彼は、ホビットについての話をそれ以上何も思いつくことができなかった。1937年10月15日の手紙で、Stanley Unwinに対し以下のように述べている。「バギンズ氏はトック家とバギンズ家の両方の性格を完全に発揮し尽くしたように思われます・・・しかし 『The Hobbit』が人気があり、もっと要望があるならば、この素材と同じようなスタイルで同じような読者にふさわしいテーマのアイディアを考え出すように努めましょう。おそらく実際のホビットたちも出てくるものを。」 Unwinが、引き続き「The Silmarillion」を出版する熱意がないことが分かったので、Tolkienは、後にこう書き送った。「『The Hobbit』の続編もしくは後を引き継ぐ話が求められているのが明白であるのは承知しています。しかし、入念に首尾一貫して作り上げられた神話(と二つの言語)の構築物で頭がいっぱいで、心は『The Silmarils』に奪われていると申し上げる時、同情して下さることを確信しています。そこで、何が起こるかは神のみぞ知るです。」三日後、彼は、Allen & Unwin社のC.A.Furthに書き送った。「私はホビットについての新しい物語の第一章を書き上げました。『待ちに待ったパーティー』です。」 「The Lord of the Rings」の執筆の歴史は、Christopher Tolkienにより「History of Middle-earth(ミドルアースの歴史)」シリーズ四巻「The Return of the Shadow(影の復活)」「The Treason of Isengard(アイセンガードの反逆)」「The War of the Ring(指輪戦争)」「Sauron Defeated(サウロンの敗北)」の中で詳細に語られている。この歴史の簡潔な要約が、Douglas A.Andersonの助力を得た Wayne G.Hammondによる「J.R.R.Tolkien: A Descriptive Bibliography(記述的な参考文献)」の中にある。しかしながら、ここでは、オックスフォードでの仕事、第二次世界、病気、誤った思いつきによる回り道、他の著作のための中断により、執筆がしばしば遅れたとだけ言えば十分であろう。Tolkienがこの作品を完成させたのは、1949年になってからのことだった。 Tolkienが改訂版の序文で語っているように、「The Lord of the Rings」は「語りながら成長し」ついには単なるホビットのもう一つの物語ではなく、彼の心の中、より壮大な神話の一部になった。「The Lord of the Rings」は「The Silmarillion」の「続き、かつ完了形」であり、二つの著作は「関連、もしくは接続させて」出版されるべきだと、彼は感じるようになった。しかし、Allen & Unwin社にも、また1949-52年に関わったCollins社にも、作者が望むように両方を出版する経済的余裕がなかった。著作は、膨大な量であり、製作費は上がり続けていたからだ。しかし、とうとう父の会社を継いだRayner Unwinが、Tolkien自身がUnwinへの手紙で「(完璧ではないが)大作」と呼んだ作品を絶賛し、その後、Allen & Unwin社が「The Lord of the Rings」を三部作で出版することになった。 出版に至る長く困難な過程を経て「The Fellowship of the Ring」が、1954年7月29日に、続いて「The Two Towers」が11月11日に、最後に「The Return of the King」が1955年10月20日に出版された。満足のいく結末のため、Tolkienが作品に不可欠だと考えた追補編を付けるのに約一年を要したのだった。 === Brandywine Ferry(ブランディワイン川の渡し舟) 2.jpg J.R.R.Tolkienは、「The Hobbit」のイラストの大部分を、本文が完成して出版されるかまたは再販されることが決まってから描いた。それに対して「The Lord of the Rings」の絵は執筆中に描かれたが、その大部分は素早くざっと描かれたスケッチ画で、執筆の手助けに使われた。 これらのうち最も初期に描かれ、またTolkienがMiddle-earthのホビットの土地を描いた絵は残念なことにごくわずかしかないが、その一枚でもある絵が、第一巻第五章のBrandywine川を渡るBuckleburyの渡し舟を描いたものである。Frodoと仲間たちはCrickhollowをめざして東へ旅をしている。「The Lord of the Rings」の残りの作品と同様、絵には描かれた日付がないが、明らかに最も初期の本文の直後のものである。竿を持つホビットも紙の上方に別に、とても小さく描かれている。この絵は、現存するTolkienの絵の中で、人間の姿を描いた最後のものである。 ☆BuckleburyのBuckleは「留め金、ゆがみ」、CrickhollowのCrickは「筋」 === Old Man Willow(柳じいさん) 3.jpg Tolkienは時折著述の参考にするためだけでなく、楽しみのために「The Lord of the Rings」の、精密なデッサンを描いた。「Old Man Willow」は、そのよい例である。これは、第一巻第六章でホビットたちが古森の陰鬱さから突如出くわした一見静寂に見える場面を描いている。そこは巨大な柳の木に支配されていた。「それは巨大に見えた。ぶざまに広がった枝々はたくさんの長い指のある腕のように上に長く伸びていた。その節くれだって曲がりくねった幹には大きく裂け目ができていて、枝がしなうと微かにきしむような音がした。」少し想像力を働かせれば、幹の右上の部分に「顔」を見ることができる。 === Rivendell Looking East(リヴンデルから東を望む) 4.jpg この見事な絵は、おそらくまだ「The Hobbit」を執筆中の1930年代に描かれたものだが、「The Lord of the Rings」のイラストとしても役に立っている。谷は、極めて深い。周りを囲むように山々の絶壁がとても高くそびえ、Elrondの館が一部分木々に隠れている。ここでTolkienは灰色ばかりでなく少なくとも七色の色彩を使った。多様な質感は主に鉛筆の先で描かれた線であらわされている。それは、Tolkienが、後の時代に好むようになった混色により濃淡をあらわす技よりも、1920年代の「Silmarillion」の技に近いものである。 === Moria Gate(モリアの門) 5.jpg Tolkienは、おそらく「The Lord of the Rings」第二巻第四章を執筆する前に、モリアの西門のこの風景を当初一枚の絵として描いたと思われる。そこは、旅の仲間が鉱山の入り口に近づく場面である。「角を曲がると、眼前に低い崖が見えた。高さが九メートル以上あり、てっぺんは崩れてギザギザだった。その上から水が滴り落ちていた…」描かれたような階段状の滝から水が滴り落ちることはほとんどないと悟った作者は、絵の下の部分を取り除き、より正確な上の部分を残した。作品の題は、絵の外の空いた部分にざっと書かれただけだった。その一方で、絵の中の一番下、二本の木の間にあるモリアの門の、より合わされた支柱を思い出させる羽目板の中に題名が優美な書体であらわれている。 === The Forest of Lothlorien in Spring(春のロスロリエンの森) 6.jpg このTolkienの色鉛筆の使い方のうまさを示す見事な絵は、おそらく1940年代初期に描かれたが、冬に旅の仲間が見た森というよりは、実際は「The Lord of the Rings」第二巻第六章でレゴラスが話して聞かせたロスロリエンのマローンの木々を描いている。「春が来て新しい緑が芽吹くと初めて葉が落ちるんだ。それから枝には黄色の花が咲きみだれる。森の地面は落ち葉で金色、頭の上を覆う花々も金色。その柱は銀色、というのは木々の樹皮はすべすべしていて灰色だから。」 === Fangorn Forest(Taur-Na-Fuin)(ファンゴルンの森) 7.jpg このイメージは形を変えて、Tolkienの主な著作三つすべての挿絵に使われた。1928年7月作の彩色の「Taur-Na-Fuin」は、Turinが語る「Silmarillion」の中のエルフたちBelegとGwindorを描いている。「Mirkwood(暗闇の森)」としてインクで描き直されたものは、「The Hobbit」の初期の版に含まれている。そして、「1974年J.R.R.Tolkienカレンダー」の中で最初の水彩画が出版された時、それは「The Lord of the Rings」のイラストとしてだった。Tolkienは「Silmarillion」の絵は、ただ題名を変えるだけで他の作品の絵にも使うことができると思っていたようだ。しかし、絵の中の人物、そのうち一人は赤いとんがり靴をはいているが、そのすんなりした人影は明らかにエルフたちであり、ファンゴルンの森にいるホビットのメリーとピピンではない。 === Helm's Deep and The Hornburg(ヘルム渓谷と角笛城) 8.jpg ローハンの地にあるヘルム渓谷の地形を決めるのには綿密な計画を要した。「The Lord of the Rings」第三巻第七章においてその地で起こった激戦の準備として、Tolkienは不要な試験用紙にこの絵を描いた。そこには、要塞と、防壁と、遠くにTindtorras(Thrihyrne)の三つの峰を望む渓谷のすばらしい遠近法による風景の精密な外観が描かれている。堀の流れが、土手道の周りを曲がりくねり、絵の一番下の曲線の隙間を通って流れ出ている。それがヘルムの堤防を示しているのは間違いない。 ** Leaves from the Book of Mazarbul(「マザルブルの書」の数ページ) [#p6fdb8d7] 「マザルブルの書」は、モリアの「マザルブルの間」で旅の仲間により発見されたが、ドワーフのバーリンの一族の運命が記録されていた。「それは、切り裂かれ、穴を開けられ、所々燃えていた。そして墨や古い血のような他の黒ずんだシミでたいそう汚れていたので、ほとんど判読できなかった。」 J.R.R.Tolkienは、これらの模写の数ページを「The Fellowship of the Ring」第二巻第五章(カザドデュムの橋)の初めに出したいと望んだが、原画に多くの色が使われているために、当時は不可能だということになった。 === 「マザルブルの書」 10.jpg 「マザルブルの書」のこのページは、「エレボールの語法」と呼ばれるAngerthasの最新形のよい例となっている。この用法は、デール出身のドワーフが、急いで書くため書法や綴りが完璧に正確でない日記の類に用いたと思われる。「The Lord of the Rings」追補編 Eの「Cirth」の項を参照すれば、ほとんどすべてのルーン文字を訳すことができる。そこには、エレボールのドワーフにより作られたAngerthas Moriaの修正形についても簡単に述べられている。 「マザルブルの書」は、ここに復元されたページも、「The Lord of the Rings」全編におけると同様に、共通語であるWestronで書かれている。共通語を使うときもドワーフは自分たちの表音的語法による習慣的綴り方を使う傾向にあった。というのは彼らは、ある一つの意味の他アルファベットやルーン文字を使うのを好まなかったし、アルファベットの組み合わせにより単音を表すのも好まなかったからである。そういうわけで、ここの綴りにおいて、各々のルーン文字が現代の英語のアルファベットの各々に対応するのが基本にはなっていない。たとえば十三行目の「chamber」は、chとmbをあらわすルーン文字があるため、たった五文字で綴られている。 後述の写本において、これらの特徴はいちいち書かれていない。特筆されるのは、theという単語が短い垂直の一画で、ofとisがルーン文字の各々一文字ずつで(しばしば)あらわされていることである。ai,ay;er;ew;oa;oj,owをあらわすそれぞれ一つずつの記号もある。一番上の右隅のルーン文字は、数字の3である。 「The Lord of the Rings」で、ガンダルフがこれらのページを読み上げた通路は「The Fellowship of the Ring」第二巻第五章の初めに「カザドデュムの橋」として出てくる。ガンダルフがマザルブルの間で判読したよりは、もう少し多く読むことが可能である。 1 我々はオークを大門と守りの(部)屋から追い払い 2 第一の広間を占拠した。多数を谷間の明(る)い日光の下で殺した 3 Floiが矢で殺された 4 彼は大将を殺した・・・・・・・・・・・Floi 5 Mirrormer(e)に近い草地に・・・・・・・来た 6 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ken 7 (我?)々は修理し(た)・・・・・・・・・ 8 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 我々は北側大二十一の広間を占拠して 10 そこに留まる。そこは空気がよい・・・・・ 11 ・・・・・・・・・・・・・それはたやすく 12 見つかる・・・・・・・柄は光る・・・・・ 13 バーリンがマザルブルの間の椅子から立ち 14 上がった・・・・・・・・集(め)た・・・ 15 金・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17 ・・・すばらしいデュリンの斧を(置き?) 18 銀の兜をバーリンは取り上げ我がものにした 19 今やバーリンはモリアの主だ: ******** 20 ・・・今日我等は純銀を発見した・・・・・ 21 ・・・・・・見事に鍛えられたかぶ(と)・ 22 ・・・最良のミスリルで作(られた?)鎖かたびら 23 オインが第三層の上方の武器庫を探しに 24 ・・西の方へ行き・・・・ホリンの門に至る ******** === 「マザルブルの書」Ⅱ 11.jpg <ガンダルフは黙って、数ページを脇へ置いた。そして「同じ種類のものが数ページあ る。かなり急いで書かれており、ひどく傷んでいる。」と言った。「だが、この暗さで は ほとんど読むことができぬ。それから、多くのページが失われているに違いない。なぜなら、5と数字が打たれて始まっているが、これは居留地に来た五年目を意味すると思われるからだ。待てよ! いや、あまりに切り取られ汚れていて、読むことができぬ。日光の下なら少しは読めるかも知れぬが。待て! 何か分かりそうだ。大きく力強いエルフ文字の筆跡だ。」 「それはオリの筆跡だと思います」とギムリが、魔法使いの腕越しに見ながら言った。「彼は、素早く上手に書くことができましたし、それによくエルフ文字を使いましたから。」 「残念ながら、その美しい筆跡で悪い知らせを書いているようだ。」とガンダルフが言った。 < (「The Fellowship of the Ring」第二巻第五章「カザドデュムの橋」) このページは、後代の、もしくはWestronの慣習にのっとり、北方の変形で、共通西方語へエルフの記号を適用したもので書かれている。内容は「The Lord of the Rings」追補編 Eに与えられた情報を元に翻訳することができる。しかし、以下の事項を特記しておこう。 母音は、tehtar(母音につけた記号)ではなく、a,e,o,uの別々の文字であらわされているが、それらは各々tengwar文字の24,35,23,22を示している。(「The Lord of the Rings」追補編 Eの表を参照のこと)また、iは、付点のないi、もしくは上に細い一画をつけてあらわされている。yは、9行めの「多く」の所でjが使われ、wは、tengwarの22と25の両方が使われている。しかし二重母音ou,owと(3行目の「悲しみ」の所と13行目の「不安」の所)、ew(9行目の「殺害した」の所)は、最初の文字の上に曲線をつけ、またayは(4行目の「日」)、aの文字の上の二つの付点であらわされている。 eは(6行目の「一人で」の所と、10行目の「銀の鉱脈」の所)、しばしばその前の文字の下の付点で示される。 子音の上の横線は、6行目の「行った」の所のように、その前が鼻音になることを示すのに使われる。また二重子音は、13行目の「塞いだ」の所のように、二番目の文字の下線であらわすらしい。lを重ねる場合は、tengwar文字の28が使われている。 ページの一番下のルーン文字は、数字の5である。 1 r・・・・・arz(おそらくars、幾年かの末に?years) 2 以来・・・・・備わって 3 悲しみ・・・・(昨)日 4 十一月の十日に 5 モリアの主バーリン倒れる。 6 ディムリル谷で。そこへ彼は一人で行った。 7 ミラーメア(純粋な鏡)を見る為に。するとオークが 8 岩の後ろから彼を射た。我々は 9 そのオークを殺害したが、更に多くが来・・・ 10 銀の鉱脈を登り東から・・・ 11 我々はバーリンのか(らだ)を救い出した・・・ 12 ・・・激しい戦い・・・ 13 我々は門を塞いだが不安だ 14 ・・・持ちこたえることができる。もし・・・ 15 脱出口がなければ恐ろしい運命が来るであろう・・・ 16 被るも、私は保ってみせる === 「マザルブルの書」Ⅲ 12.jpg 「マザルブルの書」の最後のページ。使われているルーン文字は、書き手が違い、文字の形が細部で異なっているが、最初のページと同じものである。最終行は、二番目のページで使われたのと同じエルフ文字のアルファベットで書かれている。 1 我々は出ることができない:我々は出ることができない 2 彼等は橋を奪い、二番目の・・・ 3 (全)員。フレアとロニとナリが、勇敢に倒した・・・ 4 か(たや)残りは退(却)・・・ 5 マ(ザルブ)ル。我々はまだ保・・・ 6 しかし希望が u・・・・・n・・・(オ?)インの部隊が 7 五日前に行ったが(本日)ただの 8 四人しか戻って来ない。水は壁まで上がっている 9 西門にて。水の中にも見張りが 10 オイン ー 我々は出ることができない。まもなく終わりが来 11 る 太鼓の音が聞こえる 地の底の太鼓が 彼等がやって来る ☆tengwarは、古いエルフ文字の一種。 === Orthanc(オルサンク:サルーマンの住処) 13.jpg 「The Lord of the Rings」の第三巻第八章の初版本で、オルサンクは、鎖で繋がれた杭を両側に立てた道が四方から集まるその中心にある「石の尖塔」と描写されている。「その高さ六十メートルの土台は、古代に作られ、平原の自然によって滑らかにされて残った円錐形の岩である。しかし、今やその上に、太鼓型の筒を、上に行くに従ってだんだん小さくなるように重ねた石造りの塔がそびえている。一番上の筒は短く、てっぺんは平らで、幅十五メートルの広い場所になっている。階段を下から登って行くと、そのまん中に着くことができる。」この塔に関しては、ことばにおいても美術においてもいろいろな風にあらわされてきたが、Tolkienのこの絵により、最終的に形が定まった。 === Dunharrow(焦茶の馬鍬) 14.jpg ローハンの人々の山の避難所、Dunharrwは「The Lord of the Rings」執筆の途中で、Tolkienの心の中で、何度かそのイメージが変わった。最初、彼は、くねって登る山道で行き着く高原の草原を思い描いた。その周囲には自然の岩が円形球技場の観覧席のようにせり上がり、その向こうの石の壁には洞穴が幾つかあった。彼は、1944年の終わりまでに第五巻第三章の最初の原稿の中で、二度その下絵を描いた。後に、この絵に見られるように、そこに至る道の両側に道を守る巨大な石の柱を描き加えた。やがて、洞穴はやめ、避難所を高地すなわちフィリエンフェルドだけにした。しかし並んだ石は残り、最終的には「死者の道」に至る道を際立たせている。 ☆dunは焦げ茶色。harrowは馬鍬(まぐわ)つまり土を掻きならす農具。 ☆フィリエンフェルド、ファンゴルンなどフィは森に関係する。 == Stanburg or Steinborg(Minas Tirith)(《石の都》ミナス・ティリス) 15.jpg Tolkienは、1944年11月に次のような描写の後に初めてミナス・ティリスの下絵を描いた。「『巨大な』『一つ目巨人Cyclosのように巨大な』同心円をなす幾重もの壁。実際それは小山ほどの大きさの要塞であり街である。七重の壁の7-6-5-4-3-2-1の門を通ってから『白の塔』に着く。」ここにのせた絵は、都の精密な描写として描き始められたが、Tolkienは、石造りの壁や建物をグレーで塗り始めたところで止めてしまった。おそらく頭の中でイメージした絵が変わったからであろう。出版された「The Lord of the Rings」第五巻第一章にあるミンドルイン山の「突き出した膝」の上に作られているミナス・ティリスは、この絵にはまだあらわれていない。手書きの題名は、古英語と古ノルウェー語で「石の都」を意味することばと、それをもう一度エルフのtengwar文字で書いたものである。 ☆Minas Anor(太陽の塔)が Minas Tirith - the Tower of Guard(守護の塔)と名前を変えられた。 === Shelob's Lair(シェロブの隠れ処) 16.jpg キリス・ウンゴルを通る道は元々は「山の南の方から峠へ登って行く階段と道があり、・・・それからトンネルがあり、それから幾つも階段があり、大きな峠の高い所にある裂け目に至る・・・」Tolkienはこの絵を「The Lord of the Rings」の第四巻第八章の初期の草稿のページに描いた。左下の方の「シェロブの隠れ処」という題名は後から加えられた。原稿の段階ではフロドとサムが通り道で出くわす巨大なクモは「Ungoliant」と名づけられていた。 絵を取り巻く文章は、Gollumが、フロドとサムと共にトンネルを通って、二番目の階段の一番上に着き、突然暗闇に逃げ込む地点から始まっている。 === Barad-Dur(バラド・デュア) 17.jpg Tolkienの「The Lord of the Rings」の完成した絵のうちで、おそらく最後に描かれ、そして最も印象的なものは、モルドールのサウロンの要塞バラド・デュアの景色であろう。これは、1944年10月以降に描かれた。これは完璧に仕上げられていて、輝く赤い扉と上方の窓が、その内部もMount Doom(運命の山)と同様に焼け付くように荒々しいことを暗示している。煉瓦のような形の石を接着するモルタル(しっくい)でさえ、火または血でできているように赤く流れている。要塞の一角しか見ることができないが、もっと大きな部分を作り上げるのは読者の想像力に任せられているようだ。Mount Doom自体は、塔の左の方角に見られる。第二巻第二章のアモン・ヘンからフロドが見た光景によく似ている。「煙の間から炎が輝いていた。Mount Doomは燃えていて、ひどい悪臭が立ち上っていた。」 === 表紙 18.jpg 1954年1月に、Tolkienは出版社に「The Lord of the Rings」の本のカバーのデザインをするよう頼まれた。彼はすぐに第一冊めと第二冊めの両方の下書きを何枚か描いた。 ここにある第一冊目のデザインの一つは、周りに赤いtengwar文字の指輪の銘刻があり、まん中にサウロンの眼がある「一つの指輪」を主題にしている。対立して置かれているのは、ガラドリエル、エルロンド、ガンダルフが保持している「力のある三つの指輪」である。(左上) 「一つの指輪」は「The Two Towers」(二つの塔)のデザインにも用いられているが、ミナス・モルグルとオルサンクの二つの塔が両側に並んでいて、上をナズグルが飛んでいる。(右) 「The Return of the King」のためのTolkienのデザインは最も印象的なものである。それは、翼のついた王座とゴンドールの王冠、白の木と七つの星、そして「エレンディル」の図案化された文字を主題にしている。モルドールの影が、その上方に巨大な人間の姿であらわれている。その長い腕は山々の方に伸び、その鍵爪のある手は飢えた獣の口のようである。(左下) ** J.R.R.Tolkien略歴 [#jd67c592] JOHN RONALD REUE TOLKIENは、1892年1月3日にOremge Free State(南アフリカ共和国、当時イギリス領)のBloemfoneinで生まれた。 1895年の初め、母Mabelは現地の厳しい気候に疲れ果てRonaldと弟Hilaryを連れて英国に戻った。父のリウマチ熱による死後、家族はしばらくの間Birminghamに近いSareholeに住んだ。そこの美しい鄙びた地方が、若きRonaldに強い印象を残し、その影響がはっきりと後の著作や絵のいくつかに見られる。 Mabelは、息子たちをBirmingham 礼拝堂の神父Father Francis Morganの手に託して、1904年に亡くなった。Ronaldは、BirminghamのKing Edward校で、言語学に対する興味を深め、後に自分自身で言語を作り上げた。同じくこの時代にEdith Brattに出会い、1916年に結婚した。 1914年第一次大戦の勃発時、Ronaldは、まだOxfordの学生だった。彼は、翌年英語を首席で卒業し、その後すぐにLancashire Fusiliers(ランカシャー・フュージリア:英軍部隊の一つ)の第二中尉?の任務に就いた。1916年ソンムの戦い(激戦)に参加したが、trench fever塹壕(ざんごう)熱にかかり傷病兵として本国へ送還された。 当時の最も優れた言語学者の一人であったTolkienは、仕事をしたほとんどの期間を、最初はAnglo-Saxon語(古英語)の教授、後に英語学、英文学の教授としてOxfordで過ごした。同時に個人的に、後に「SILMARILLIION」として出版された神話と伝説の壮大な体系を作り上げていた。 四人の子どもに恵まれ、「THE HOBBIT」の物語を書いたのは、この子どもたちのためでもあった。これは1937年に初めてGeorge Allen & Unwin社から出版されたが、とても好評だったので、出版社は直ちに続編を所望した。しかし、Tolkienの傑作「THE LORD OF THE RINGS」の初版本は1954年になってやっと出版されたが、出版されるやいなや絶賛された。その人気沸騰ぶりはTolkien自身を驚かせた。 後にTolkien夫妻RonaldとEdithは、Bournemouthへ引っ越したが、1971年のEdithの死後、TolkienはOxfordへ戻った。そして、1973年9月2日に少し患った後、亡くなった。 ☆(ORANGE FREE STATE・・・an inland province of British South Africa)