表紙

1954年1月に、Tolkienは出版社に「The Lord of the Rings」の本のカバーのデザインをするよう頼まれた。彼はすぐに第一冊めと第二冊めの両方の下書きを何枚か描いた。

ここにある第一冊目のデザインの一つは、周りに赤いtengwar文字の指輪の銘刻があり、まん中にサウロンの眼がある「一つの指輪」を主題にしている。対立して置かれているのは、ガラドリエル、エルロンド、ガンダルフが保持している「力のある三つの指輪」である。(左上)

「一つの指輪」は「The Two Towers」(二つの塔)のデザインにも用いられているが、ミナス・モルグルとオルサンクの二つの塔が両側に並んでいて、上をナズグルが飛んでいる。(右)

「The Return of the King」のためのTolkienのデザインは最も印象的なものである。それは、翼のついた王座とゴンドールの王冠、白の木と七つの星、そして「エレンディル」の図案化された文字を主題にしている。モルドールの影が、その上方に巨大な人間の姿であらわれている。その長い腕は山々の方に伸び、その鍵爪のある手は飢えた獣の口のようである。(左下)

** J.R.R.Tolkien略歴 [#jd67c592]

JOHN RONALD REUE TOLKIENは、1892年1月3日にOremge Free State(南アフリカ共和国、当時イギリス領)のBloemfoneinで生まれた。

1895年の初め、母Mabelは現地の厳しい気候に疲れ果てRonaldと弟Hilaryを連れて英国に戻った。父のリウマチ熱による死後、家族はしばらくの間Birminghamに近いSareholeに住んだ。そこの美しい鄙びた地方が、若きRonaldに強い印象を残し、その影響がはっきりと後の著作や絵のいくつかに見られる。

Mabelは、息子たちをBirmingham 礼拝堂の神父Father Francis Morganの手に託して、1904年に亡くなった。Ronaldは、BirminghamのKing Edward校で、言語学に対する興味を深め、後に自分自身で言語を作り上げた。同じくこの時代にEdith Brattに出会い、1916年に結婚した。

1914年第一次大戦の勃発時、Ronaldは、まだOxfordの学生だった。彼は、翌年英語を首席で卒業し、その後すぐにLancashire Fusiliers(ランカシャー・フュージリア:英軍部隊の一つ)の第二中尉?の任務に就いた。1916年ソンムの戦い(激戦)に参加したが、trench fever塹壕(ざんごう)熱にかかり傷病兵として本国へ送還された。

当時の最も優れた言語学者の一人であったTolkienは、仕事をしたほとんどの期間を、最初はAnglo-Saxon語(古英語)の教授、後に英語学、英文学の教授としてOxfordで過ごした。同時に個人的に、後に「SILMARILLIION」として出版された神話と伝説の壮大な体系を作り上げていた。

四人の子どもに恵まれ、「THE HOBBIT」の物語を書いたのは、この子どもたちのためでもあった。これは1937年に初めてGeorge Allen & Unwin社から出版されたが、とても好評だったので、出版社は直ちに続編を所望した。しかし、Tolkienの傑作「THE LORD OF THE RINGS」の初版本は1954年になってやっと出版されたが、出版されるやいなや絶賛された。その人気沸騰ぶりはTolkien自身を驚かせた。

後にTolkien夫妻RonaldとEdithは、Bournemouthへ引っ越したが、1971年のEdithの死後、TolkienはOxfordへ戻った。そして、1973年9月2日に少し患った後、亡くなった。

☆(ORANGE FREE STATE・・・an inland province of British South Africa)


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